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詩や雑感を記したり、好きなものを紹介します。

自由な理性

intergrityの話はしたっけ。現代日本人に多く不足している精神性。(僕個人は無いとは思ってないが、無いと断定的に判じる人もある。)

今日は、それはこういうものだと教えてくれたある識者の言葉を借りたい。

それは自由な理性と言う。この時の理性と言うのは、特別見識が高いということでも、計算高いと言う事でもない。普通に考えれば分かる事、もっと言えば当然性のある事、見れば聞けば分かることを判別する人間の基本性能の事です。これが働いてると、余計な疑念や雑多な観念を大幅に軽減する。理性的に考えれば有り得ないだろ?って言うようなことが意識に明確に現れるようになり、平静さとストレスの無さを体感でき、物覚えが良くなり、無駄な行動は削減され、暮らし、延いては生きる事が大変快適になる。

なるほどーと言う思いが、楽になったと言う体感と共に理解される。intergrityは辞書では高潔さとか誠実さと訳されているが、おそらくそんな大した感じのものではない。普通、当たり前のこと、理性的な事、自分で当然のごとく判断出来る事、だと思う。

それを、彼(ある識者)はreasonと言う単語を用いて説明してくれた。reasonとは理性、reasonsとは理由、分け、訳の事で、つまり理性とは訳が分かる事を言う。それが自由に働いている状態。自由とは、自分の意志が生きている状態。自由な理性が人間にとっていかに基本的な事かが分かる。

しかし付け加えておかなければならないことがあるとするなら、基本的な事と言う事は、それの発展的なことが存在し得る。それが、何故?とか言った理由を探し求める営みの果てに生まれる、いかに生きてあるべきかと言ったような、例えば高潔さと言った様相を生み出すところなのだろうと思われる。

 

個人、社会、世界

今日も少し真面目な話をしたい。

 

日本社会では個人はないがしろにされていると考える人々が少なからずいる。何故そう思うのか?どうすれば解決できるのかについて話したい。

 

日本社会では、立場を尊重する。社会において立場を得て、立場によってまさしく立ち回り、その責任を背負い、役目を果たすことが、即ち社会人である。半面、個人は尊重されない。定時に上がるのは幼稚園に子供を迎えに行くからだと男性が言うと、成り切ってない人だと言われるかもしれない。妻が夫の仕事に不用意に口を出せば、出過ぎた真似と言われるかもしれない。なるほど、個人を尊重する社会からすれば、なんて窮屈な、生き難い社会だろうと思う事だろう。

しかし事実はこうなのである。たとえ定時に職場を上がれなくても、社会的役割をきちんと果たす人は、子供を迎えに行けなかったとしても、子供に関して社会的責務を負う人がそれをフォローしてくれると信頼している。この相互の信頼感は現代日本でも生きている。子供も、たとえお父さんお母さんが迎えにこれなくても、大人になった時に、社会に対する信頼、人々に対する信頼を培って理解するようになると、大人は子供を信じているのである。これが日本型立場社会の実像であると私は見る。これは忍耐のいることであるが、その忍耐は苦渋ではなく、静かで安定したものである。

しかしとはいっても、自分で子供をしっかり育てたい父親とか、自分でしっかり仕事をしたい母親と言うのも増えてきている。彼らからすれば、この、ある種分業的な信頼に基づく日本型社会は好ましいものではない。彼らは自分で何でもマルチにこなしたいのである。そして、言ってしまえば自分の好きなように生きたいのである。それを、日本型立場社会に馴染むある種の人々は疎外し、身勝手とか、我儘と言って糾弾さえするかもしれない。しかしそれは実は批判するには当たらないのである。

立場に奉仕する人間に対する相互信頼に基づき、高度に社会化された仕組みが日本社会には確かに存在する。しかし、個人で何でもこなす、いわば自由度の高い、フレキシブルな社会形態が、否定されるべき根拠はないのである。そちらの方が、職業専門性は低くなるかもしれないが、逆に創造性は高くなる可能性がある。新しい役割(仕事)が生まれる可能性があると言う意味である。

さて、以上のような個人か社会人かの二種の生き方の間で軋轢が起こっているのが現状であるが、これを解決するにはどうすればいいかを次に話したい。

結論から言おう。それは、個人でも、社会人でもなく、一存在として生きるための、より大きな世界観を持つことである。個人として生きるその基準とは、つまりは好みの範疇に収まる。社会人として生きるその基準とはつまりは使命である。そして、一存在として生きるその基準とは、世界観なのである。

西洋ではこの大きな世界観を為す根本に唯一神を配置する。それによって個が社会を超えてより大きな存在とつながる事で、個と社会の間の軋轢を回避していると思われる。社会もまた、この神の意に極力従うように設計される。(現代では無神論者も多い西洋社会ではあるが)

では日本はどうなのか?日本の場合、それは唯一神ではなく”自然”であると考えられる。自然と人がつながることが、日本社会のバックグラウンド、基礎にならなければならない。それが意識されることが、現代の住み難き日本社会の状況を打開することになると私は考える。

自然を忘れる事、これが現代日本社会の大きな亀裂なのだと私は考える。自然とは何かと考え、自らの内にある自然に気づき、移ろい行く生命に対する慈愛といたわりを思い出し、移ろい行く季節に人生を重ねて時を虚しく過ごさず、悠々として凛とした生き方を、日本人は出来るはずなのである。

それが、西洋のintergrityに代わる日本人の精神性、巡る想いなのである。

それはintergrityのような完全性や絶対性は保持しない。あえて西洋的に言うならば万物は流転すると言う事実の上で、変わらぬ生き方、永遠性を顕すものである。やさしく、澄んでいて、貴く(たかく)、しかし身の内に存在する確かな命のあり方なのである。それは人間を超えている。

その様な透徹した眼差しと受容の態度が、あるはずの日本的な生き方の土台と言えよう。

 

ところで、私個人の話をすれば、その繋がるべき大きなものを、私は自然でも神でもなく、”世界”と呼んでいる。大きく円い、統べられた世界である。これは解放されているゆえに有限ではない。しかし散逸しているわけではないので全うされている。変化を内包した、存在としては一なるものである。

広くて円い世界

今日は少し真面目なお話。

ある、日本語の堪能な外国人の方が、切実な問いを発した。日本には、intergrity、これはある種の徳の様なものだと思うが、それが存在しないと彼は言う。

日本で知られている徳は基本的には目に見えない。目に見えては徳にならないから。徳と言うからには誰かの苦境を取り除く働きがあるのであるが、それが目に見えてしまうと、ある種の恩となって人を束縛してしまう。それで、徳は目立たなければ目立たないほど、その功徳も大きい。何気ない一言で人を窮地から遠ざけるようなものである。

つまり、派手で、目立ち、華々しいものは基本的には徳とはならない。それは助けかもしれないが、徳ではないのである。

さて、ところで西洋社会では、この徳が、明らかなものとして社会に通底していて、それが社会を構成する上での基本的な要素となっているそうだ。

例えば日本社会では、電車のマナーがあまりよくないと彼は言う。誰も妊婦に席を譲らない。なるほど、確かにそういう場面をよく見る。僕個人は普通に席を譲ろうとするタイプの人間だけど、なかなかそれが出来ない人も居るし、無関心な人も居るだろう。

何故なのか?それは僕にもはっきり分からない。分からないが、気を遣って声をかけない可能性はある。妊婦に気を遣って席を自分からは譲らないのである。さて、これは難しい話である。妊婦の方も気を遣ってどうしてもと言う場合を除いては席を譲ってくださいとは言わない。(立っていた方が楽だと言う意見もあるが、それは今は置いておこう。)

日本の人が人知れず従っている理が存在する。これは西洋的な考えからすればおよそとんでもなく不思議で、ともすれば馬鹿らしいと思う人も居るかもしれない。日本人の中でも、少なからずの人がそんな馬鹿なと言うかもしれないそれについて話そう。

それは、タイミングは何によって生じるのか?と言う事である。妊婦が電車に乗った。タイミングよく席を立つ人がいて、妊婦は座ることが出来た。これを、日本人は神の働きと見る。別の言い方をすれば、運が良かったとも言う。出来事は運ばれてきたのである。こんな些細なことでも、神の働き、計らいなのである。思えば世の生活はタイミングの連続である。無限の広がりをもって、縦に横に奥に、時間を超えて、人々の間を縫うようにしてこの働きは広がっている。人々の間に神の働きが介在する。これが日本人の秘密の世界観であると私は見ている。つまり、席を譲られたのも良かった、席を譲られなかったのも良かった、このように考えられるような結果、つまり妊婦が元気な子供を埋めることが、妊婦を目撃した人々の意識や無意識において願われているのである。

では悪いタイミングと言うものについてはどう説明するのか?人々はそれに抵抗し、やはり良い結果を”招こう”とする。苛立った哀れなゴロツキが、妊婦と口論になり腹を殴ると言う事件が散発的にある。意見の多勢はゴロツキを責めるものとなるが、その様なゴロツキを救済できていなかったのは社会の落ち度であると考える人々も一定数居る。

日本においては神とは、人々の善き願い、想いの総体なのである。それで次のような物語が生まれる。信者が減り、信仰の薄まった神が病気になったり、弱体化したり、遂には消えてしまったりするのである。

唯一絶対神を掲げる西洋社会とは、善の由来が違う。日本では善はあくまで人の真心に由来し、その真心の中に神や仏が住まわれているのだ。