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詩や雑感を記したり、好きなものを紹介します。

個人、社会、世界

今日も少し真面目な話をしたい。

 

日本社会では個人はないがしろにされていると考える人々が少なからずいる。何故そう思うのか?どうすれば解決できるのかについて話したい。

 

日本社会では、立場を尊重する。社会において立場を得て、立場によってまさしく立ち回り、その責任を背負い、役目を果たすことが、即ち社会人である。半面、個人は尊重されない。定時に上がるのは幼稚園に子供を迎えに行くからだと男性が言うと、成り切ってない人だと言われるかもしれない。妻が夫の仕事に不用意に口を出せば、出過ぎた真似と言われるかもしれない。なるほど、個人を尊重する社会からすれば、なんて窮屈な、生き難い社会だろうと思う事だろう。

しかし事実はこうなのである。たとえ定時に職場を上がれなくても、社会的役割をきちんと果たす人は、子供を迎えに行けなかったとしても、子供に関して社会的責務を負う人がそれをフォローしてくれると信頼している。この相互の信頼感は現代日本でも生きている。子供も、たとえお父さんお母さんが迎えにこれなくても、大人になった時に、社会に対する信頼、人々に対する信頼を培って理解するようになると、大人は子供を信じているのである。これが日本型立場社会の実像であると私は見る。これは忍耐のいることであるが、その忍耐は苦渋ではなく、静かで安定したものである。

しかしとはいっても、自分で子供をしっかり育てたい父親とか、自分でしっかり仕事をしたい母親と言うのも増えてきている。彼らからすれば、この、ある種分業的な信頼に基づく日本型社会は好ましいものではない。彼らは自分で何でもマルチにこなしたいのである。そして、言ってしまえば自分の好きなように生きたいのである。それを、日本型立場社会に馴染むある種の人々は疎外し、身勝手とか、我儘と言って糾弾さえするかもしれない。しかしそれは実は批判するには当たらないのである。

立場に奉仕する人間に対する相互信頼に基づき、高度に社会化された仕組みが日本社会には確かに存在する。しかし、個人で何でもこなす、いわば自由度の高い、フレキシブルな社会形態が、否定されるべき根拠はないのである。そちらの方が、職業専門性は低くなるかもしれないが、逆に創造性は高くなる可能性がある。新しい役割(仕事)が生まれる可能性があると言う意味である。

さて、以上のような個人か社会人かの二種の生き方の間で軋轢が起こっているのが現状であるが、これを解決するにはどうすればいいかを次に話したい。

結論から言おう。それは、個人でも、社会人でもなく、一存在として生きるための、より大きな世界観を持つことである。個人として生きるその基準とは、つまりは好みの範疇に収まる。社会人として生きるその基準とはつまりは使命である。そして、一存在として生きるその基準とは、世界観なのである。

西洋ではこの大きな世界観を為す根本に唯一神を配置する。それによって個が社会を超えてより大きな存在とつながる事で、個と社会の間の軋轢を回避していると思われる。社会もまた、この神の意に極力従うように設計される。(現代では無神論者も多い西洋社会ではあるが)

では日本はどうなのか?日本の場合、それは唯一神ではなく”自然”であると考えられる。自然と人がつながることが、日本社会のバックグラウンド、基礎にならなければならない。それが意識されることが、現代の住み難き日本社会の状況を打開することになると私は考える。

自然を忘れる事、これが現代日本社会の大きな亀裂なのだと私は考える。自然とは何かと考え、自らの内にある自然に気づき、移ろい行く生命に対する慈愛といたわりを思い出し、移ろい行く季節に人生を重ねて時を虚しく過ごさず、悠々として凛とした生き方を、日本人は出来るはずなのである。

それが、西洋のintergrityに代わる日本人の精神性、巡る想いなのである。

それはintergrityのような完全性や絶対性は保持しない。あえて西洋的に言うならば万物は流転すると言う事実の上で、変わらぬ生き方、永遠性を顕すものである。やさしく、澄んでいて、貴く(たかく)、しかし身の内に存在する確かな命のあり方なのである。それは人間を超えている。

その様な透徹した眼差しと受容の態度が、あるはずの日本的な生き方の土台と言えよう。

 

ところで、私個人の話をすれば、その繋がるべき大きなものを、私は自然でも神でもなく、”世界”と呼んでいる。大きく円い、統べられた世界である。これは解放されているゆえに有限ではない。しかし散逸しているわけではないので全うされている。変化を内包した、存在としては一なるものである。