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詩や雑感を記したり、好きなものを紹介します。

広くて円い世界

今日は少し真面目なお話。

ある、日本語の堪能な外国人の方が、切実な問いを発した。日本には、intergrity、これはある種の徳の様なものだと思うが、それが存在しないと彼は言う。

日本で知られている徳は基本的には目に見えない。目に見えては徳にならないから。徳と言うからには誰かの苦境を取り除く働きがあるのであるが、それが目に見えてしまうと、ある種の恩となって人を束縛してしまう。それで、徳は目立たなければ目立たないほど、その功徳も大きい。何気ない一言で人を窮地から遠ざけるようなものである。

つまり、派手で、目立ち、華々しいものは基本的には徳とはならない。それは助けかもしれないが、徳ではないのである。

さて、ところで西洋社会では、この徳が、明らかなものとして社会に通底していて、それが社会を構成する上での基本的な要素となっているそうだ。

例えば日本社会では、電車のマナーがあまりよくないと彼は言う。誰も妊婦に席を譲らない。なるほど、確かにそういう場面をよく見る。僕個人は普通に席を譲ろうとするタイプの人間だけど、なかなかそれが出来ない人も居るし、無関心な人も居るだろう。

何故なのか?それは僕にもはっきり分からない。分からないが、気を遣って声をかけない可能性はある。妊婦に気を遣って席を自分からは譲らないのである。さて、これは難しい話である。妊婦の方も気を遣ってどうしてもと言う場合を除いては席を譲ってくださいとは言わない。(立っていた方が楽だと言う意見もあるが、それは今は置いておこう。)

日本の人が人知れず従っている理が存在する。これは西洋的な考えからすればおよそとんでもなく不思議で、ともすれば馬鹿らしいと思う人も居るかもしれない。日本人の中でも、少なからずの人がそんな馬鹿なと言うかもしれないそれについて話そう。

それは、タイミングは何によって生じるのか?と言う事である。妊婦が電車に乗った。タイミングよく席を立つ人がいて、妊婦は座ることが出来た。これを、日本人は神の働きと見る。別の言い方をすれば、運が良かったとも言う。出来事は運ばれてきたのである。こんな些細なことでも、神の働き、計らいなのである。思えば世の生活はタイミングの連続である。無限の広がりをもって、縦に横に奥に、時間を超えて、人々の間を縫うようにしてこの働きは広がっている。人々の間に神の働きが介在する。これが日本人の秘密の世界観であると私は見ている。つまり、席を譲られたのも良かった、席を譲られなかったのも良かった、このように考えられるような結果、つまり妊婦が元気な子供を埋めることが、妊婦を目撃した人々の意識や無意識において願われているのである。

では悪いタイミングと言うものについてはどう説明するのか?人々はそれに抵抗し、やはり良い結果を”招こう”とする。苛立った哀れなゴロツキが、妊婦と口論になり腹を殴ると言う事件が散発的にある。意見の多勢はゴロツキを責めるものとなるが、その様なゴロツキを救済できていなかったのは社会の落ち度であると考える人々も一定数居る。

日本においては神とは、人々の善き願い、想いの総体なのである。それで次のような物語が生まれる。信者が減り、信仰の薄まった神が病気になったり、弱体化したり、遂には消えてしまったりするのである。

唯一絶対神を掲げる西洋社会とは、善の由来が違う。日本では善はあくまで人の真心に由来し、その真心の中に神や仏が住まわれているのだ。